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映画「大久野島」ネット上で公開されました。
[手記]
昨日 ドイツのフォトジャーナリスト フリッツ シューマンさんさんからメッセージをいただきました。ああ、フリッツさん!さまざまな困難を乗り越えて 作られた映画が ネット上で視聴できるようになりました。日本語、ド....
小津安二郎さんのこと/補完
[手記]
天野さんが 小津安二郎の行軍記録について調べてくださいました。小津安二郎についてもうちょっと調べてみたら、野戦瓦斯第二中隊(甲)の所属であったようで、昭和13年10月頃に上海から中国に入って、少なくとも昭和1....
戦場体験放映保存の会さまがまとめてくださいました。
[手記]
戦場体験放映保存の会が共同で聞き取りを行い、まとめてくださいましたこちらからご覧ください。....
耐乏生活と復興
[手記]
食糧不足と生活物資の配給生活は厳しくなるばかりであった。農家は各自経営面積に依って、作付面積、作物名、出荷量が決定義務となっていて、違反者は処罰されるのであった。各自が努力して割当数量よりも多く生産した分だけ....
玉音放送
[手記]
20年8月14日午後、「明日15日正午に全国民に天皇陛下から重大放送があるので、各自はラジオで聞くように」との連絡を受けた。中隊長を中心にして 本部室では 幹部全員に集合してもらって、本土決戦に突入するのか、....
軍隊にあった罰について
[手記]
戦後の社会で生活して来た人々には 信じてもらえない軍隊でした。古参兵達が 初年兵の目の前で、「初年兵が絶対にやってはいけない事」を平気でやっている...。上官が見ていても一言も叱らないのであった。例えば軍馬に....
北部30111部隊第三中隊(3)
この頃は各家庭で使う鍋や釜をはじめ、農機具も最小限にして、兵器の原料になる物資は全て供出をさせられていたので大変であった。街に出ると私服と言っても在郷軍人服を着用していたので一般住民からは「この戦争は本当に勝....
北部30111部隊第三中隊(2)
[手記]
軍事訓練は、誰も兵器を持たない教育が午前中であった。午後は壕作りに連日汗を流していた。隊員は全員が若いので配給になっている米麦では足りないので本部勤務兵は苦労の連続であった。5名が2科目ずつ担当していた。下士....
北部30111部隊第三中隊(1)
[手記]
北部30111部隊第三中隊7月下旬に虻田町中学校を兵舎として本土決戦部隊第三中隊が編成完結になった。中隊長は伊達中学校校長で 藤原又蔵中尉殿であった。この時も 幹部教育と同じ私物着用で各自着替衣服も「持参」が....
資料/決戦訓
[手記]
決戦訓昭和20年4月21日公布一、皇軍将兵ハ神勅ヲ奉戴シテ愈々聖諭ノ遵守ニ邁進スベシ。 聖諭ノ遵守ハ皇国軍人ノ生命ナリ、神洲不滅ノ信念に徹シテ日夜聖諭を奉誦シテ、之ガ服行ニ精魂ヲ尽クスベシ必勝ノ根本茲ニ存ス。....
敢行できなかった本土決戦(3)
[手記]
教育修了日は早朝から全道主要地に米軍の大空襲があり、室蘭が艦砲射撃を受けて大きな被害があり、苫小牧の被害も大きかった。 汽車に乗ったのが 午後2時を過ぎていた。発車したのが夜になってからで、登別駅では2時間余....
敢行できなかった本土決戦(2)
[手記]
 7月上旬に集合した。市町村の人口数に依って人員が割当になってた事も分かった。教官は東京中野兵学校からの派遣将校早川利夫大尉殿であった。普通であれば下士官一名の随行となっているのに、よく考えると兵員も不足であ....
敢行できなかった本土決戦(1)
[手記]
 昭和20年1月25日に旭川の各連隊から憲兵隊に転属になった6名が6月11日に本部室に呼ばれた。6名は6月12日召集解除の処、即日召集に依り、生家に帰り、北部30111部隊からの指令を待つべしであった。6名は....
誰のための戦争だったのか
 過ぎた戦争を日本は聖戦であると言った。人間爆弾と言っても過言ではない特別特攻部隊は、戦闘機一機に爆弾一個片道だけの燃料、二階級昇進した操縦兵一人で米軍軍艦に突入させた事は、当時私も何とも考えなかった。日本の....
戦争中のお守り(2)
昭和15年1月7日からの中支那(現中国)高城地区の戦闘に参加して、馬家並びに京漠線広水から柳林の戦闘に移動した時、広水では毒ガスの使用も大きかった。私は風邪をひいて高熱を出して乗馬もしないで古尾号の手綱を腰の....
戦争中のお守り(1)
[手記]
出征時と戦地で多くの人から戴いたお守りが31個もあった。今でも時々思い出すので、お守りのことをいくつか書く事にする。昭和13年の徴兵検査で佐藤信君、荒川登君、森 文雄君、三品 勇君、私と5名が甲種合格になった....
藤本 安馬氏の来訪(2)
[手記]
 藤本氏の手記は工場内の図解説明も詳細に書かれており、関東軍が敗戦直後に現地で、日本兵が上官の指示で毒ガス弾を地下または古井戸に遺棄したことを、本人実名で、当時の状況から詳しく書いてもらって集録している。また....
藤本 安馬氏の来訪(1)
[手記]
 平成19年8月9日、広島県三原市在住の藤本安馬氏の来訪で詳しく知る事ができた。本人の諒解も得ているので 少し書かせてもらう事にする。 藤本氏は昭和16年14歳で働き乍らお金がもらえて学校にも行けるとの契約で....
イペリットとルイサイト
[手記]
 藤本氏の手記は50余年も調査してまとめられたものであり、平成3年2月21日となっている。本人から諒承も得ているのと、私の体の異状と同一の症状が書かれたのを二つほど書き足す事にした。 日本は昭和2年に毒ガス研....
毒ガスの後遺症
[手記]
イペリット、ルイサイトの実験後消毒液で洗浄したが、翌朝3センチ位に大きく化膿していた。全快までに10日くらいはかかった。 左右の足ヒザ下に薄い赤アザ、黒いアザが出るようになったのが、30歳の終わり頃から75歳....
毒ガスの人体実験を受けた私
[手記]
 平成18年の会員集(※)にも書いたが、催涙ガス、嘔吐ガス、クシャミガスの人体実験はとても苦しかった。終わって15分の小休止があった。15分休んでも体のふらつく兵は病院へ連れて行き、手当てして回復すれば再度訓....
咲間さんの手記/はじめに
[手記]
毒ガスのこと....咲間さん自身の手記から...死んでも語るな書くなという厳しい上官の言葉の下で、毒ガスの教育を受けて、日支戦争に毒ガス部隊の一人として参戦したが、上官の命令は天皇の命令であるとの教育だったの....

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