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藤本 安馬氏の来訪(1)
[手記]
 平成19年8月9日、広島県三原市在住の藤本安馬氏の来訪で詳しく知る事ができた。本人の諒解も得ているので 少し書かせてもらう事にする。

 藤本氏は昭和16年14歳で働き乍らお金がもらえて学校にも行けるとの契約で、広島県竹原市沖の大久野島、当時数戸の住民を移住させて無人島にして建造した、東京第二陸軍造兵厰技能者養成所で毒ガス製造に従事させられた、五千人から六千人という中の一人であった。教官に、見た事、聞こえた事は絶対に家族には勿論誰にも言うなとの事であったという。冬は完全防護服を着用したが、夏は暑いので布マスクだけでの作業であった。時には毒ガスの蒸気が噴出したり、事故で死者も出た。何人もが中枢神経をやられてフラフラ歩きで作業をする。募集時の話と全く違う、ひどいものであったと語っていた。

 藤本氏の手記に依ると、広島県竹原市忠海町の沖3キロメートルにある小島が大久野島、周囲約4キロメートルである。昭和15年に忠海町駅前に東京第二陸軍造兵厰技能者養成所忠海分所、養成工の宿舎があって、その宿舎から大久野島までポンポン船で連日毒ガス製造に往復して作業に従事したと言う。
 宿舎から陸地桟橋迄養成工による隊列で、第一期生(二年生)のブラスバンド演奏で忠海製造所歌を声高らかに歌い乍ら行進したとも語っていた。当時の日本は聖戦であると言っていた時代なので、工員始め一般国民を鼓舞するためのものであったと思う。島には9棟の生産工場、、技能者養成所、研究室、事務室、所長室、医務室、貯水池、風呂場、洗濯場、炊事場、重油タンク、発電所、他に軍の北部砲台、中部砲台と火薬庫があって、これらの施設で全島が使用されていたという。

 幹部は工員に、この製品は現在使用中の兵器よりも安全なもので、戦争を早く終わらせるために使用するのだと聞かせていたとの事である。でも島の松の木が次々と枯れてしまうので、工員達は、何か毒素の強い物質だろうと語り、月日の経過する事で毒ガスであることを知ったとのこと。私も戦後年を重ねるとともに読んだり、聞いたりで、あの戦争は天皇陛下のご指示でなく、日本国の権力者の国権に依って思うがままに国民が行動をさせられて戦争を拡大してしまった。戦地の軍人だけでなく、全国民が大きな悲惨な体験をして敗戦となったのだ。藤本氏はこのような国権を相手に国民としての公平な結果を勝ちうる事は針の穴に象を通すよりもむずかしいと語り、また、書いてもいる。


[手記]

Edited by じゅんか 2009-06-02 15:21:05
Last Modified 2014-08-16 21:10:38

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