[手記]
イペリット、ルイサイトの実験後消毒液で洗浄したが、翌朝3センチ位に大きく化膿していた。全快までに10日くらいはかかった。左右の足ヒザ下に薄い赤アザ、黒いアザが出るようになったのが、30歳の終わり頃から75歳頃まで続いた。ヒザ下のシビレと痛みは加齢とともに強くなった。ガマンできなくなると、妻には別の用件と話して病院へ行って、痛み止めの注射をしてもらって過ごして来た。アザも気になるので、皮膚科医院で診察を受けて軟膏をつけていると、何時の間にか消えて、暫く過ぎると繰り返し出るのであった。戦後の伊達町には一病院と7医院があったので、全部の病医院で診察を受けて毒ガスのことを話したら、後遺症はあることを8人の医師がはっきりと語って、「ひどい時代に生まれたものだ」と言い乍ら注射を打ったり、薬を出してもらって過ごした。風呂上がりに妻が私のアザを見て、「どうしたの、そのアザ」というので、「俺もよく分からないのだ。医院からの軟膏をつけていると消えて、しばらくするとまた出るんだよ」というと、これ以上は聞かなかった。80歳になって新風書房の原稿を書いた時に初めて妻に軍隊での毒ガスのことを詳しく語ったら、吃驚していた。また、「本当にそんなひどい教育だったの」とも言った。この時から私は毒ガスのことを語るようになった。私は現役と予備役3回の召集であった、瓦斯13部隊の戦友会だけは都合して毎年出席して同年兵とお世話になった先輩兵と語り合うのであった。戦友会の30回の記念誌にも毒ガスの事は誰一人書いていないのは、当時の教育を守ったからだ。時々体中に大豆粒くらいの白い斑点が出る事もあった。戦争を体験した医師は皆、種々と体の異状を聞き治療してくれたが、一時シビレと痛みが軽くなるだけで過ごして来た。戦後の教育を受けた医師に 戦争中の毒ガスのことを語っても、そんな時代もあったのかとか、80歳になってからは老化だよと言われるようになってしまった。
80歳になってから現在アザと白い斑点はあまり出なくなった。85歳の時に腰が痛いので整形外科で診察の結果、腰椎にズレがあるとの事で、治療を受けて一年ほどで大分良くなった。80歳になってからは左右ヒザ下のシビレと痛みは強くなるばかりで、眠っている時だけわからないで過ごしている。私は老化防止には自分にあった運動が一番と考えて、70歳からは一日も欠かさずに毎日軽い運動を続けて来た。今は歩くには2本の杖を利用しているので部屋の中で手や足、関節などの運動で過ごしている。70歳から毎年市の肺ガンと肺結核の検診を受けている。平成18年と19年には異状があると言われて、再診の結果異状は無いと言われた。今年は検診車での受診は歩行上無理なので、かかりつけの医院で検診を受ける事にしている。平成18年7月から19年10月まで腰椎のズレで治療を受けた日赤病院整形外科の先生は腰椎の痛みがよくなってきているのに、左右ヒザ下のシビレと痛みは強くなるばかりとは本当に不思議だと言うだけで過ごしている。
日支戦争で私たちの瓦斯13部隊で使用した毒ガスは発煙筒式が多かった。逐次砲弾化して使用した。効果も大きくなったと考えられる。毒ガスは銃や砲弾と違ってフラフラ歩いて倒れるのが多いので、戦死者は広範囲に亘っていた。強風の時に使用した時には、敵兵だけでなく一般住民にも被害があった。毒ガスを使用する兵は防毒面を着用したが、戦場でもあり、時には自分の体に付着する事もあったと考えられる。昭和15年4月16日から7月末迄の宜昌戦に参加した時は、何回使用したかはっきりした記憶は無いが、随分多量に使用したことは確かであった。戦場となった地区で、一般住民が数人防空壕らしき所に逃げ込む後方から、歩兵が毒ガス弾を投げ込むのを何回も見た。戦場では兵士全員が鬼人と化してしまっていたので、敵人と見ると誰もがやったことで、今になって思い出したくもない記憶をたどり書いている自分が、人種が違っても人間を殺したのだから、謝罪の一端になればと心して真実を書くことにした。
現在の私のヒザ下のシビレと痛みは強くなるばかりで、ヒザ下の運動と自分でのマッサージを一日3回連日行って過ごしている。少しでもなまけると、フクラハギが棒のようにかたくなって歩けなくなってしまうのだ。小柄だが87歳迄62キロから63キロの体重であったのが、急にやせてしまって41キロになってしまった。今年になってから少しずつ体重も増えて、6月末で46キロとなった。運動のことも教えられたので、昨年の8月から実行している。藤本氏の話では毒ガスの被害は人体全部に及ぶ事、治療を続けても完治する事は難しいと語っていた
[手記]
Edited by じゅんか 2009-06-01 17:21:53
Last Modified 2009-06-02 15:17:45