HOME > 手記 > 北部30111部隊第三中隊(3)

< 新しい記事 | HOME | 古い記事 >

北部30111部隊第三中隊(3)
[手記コメント(2)]
この頃は各家庭で使う鍋や釜をはじめ、農機具も最小限にして、兵器の原料になる物資は全て供出をさせられていたので大変であった。街に出ると私服と言っても在郷軍人服を着用していたので一般住民からは「この戦争は本当に勝てるのでしょうか」とか「竹槍訓練も連日婦人達が指導を受けていますが竹槍ではどうにもならないと考えますが」などと何人もに聞かれるのであった。返答には「どうしても勝たねばならないのです。お互いにがんばりましょう」と言うだけであった。

早川教官殿からは、本土決戦敢行と決定になった時には一般住民にも爆弾2個ずつ渡すから、一個は敵を殺す、一個は自決用だとの教育であった。
虻田での教育は私は担当でなかったので分からない。

今年(平成21年8月)STVテレビの記者から電話があった時に終戦の年に軍からの指示で爆弾を制作させられたが、使用しないで終戦になったと語る老人が札幌で健在で、当時のことを詳しく話している」と聞かされた。軍部では本土決戦を計画、逐次準備中であったと考えられられる。日本はアッツ島全員玉砕後の戦果は不利であった事は誰もが知っているのである。私は73歳の時から 自分が体験した戦争と軍隊の真実を一つでも多く調べておくことにした。

昭和51年にわかったことの一つに瓦斯部隊の先輩兵からの便りがあった。
...当時陸軍は(昭和20年)長野県松代の地下に仮皇居と大本営を建造して本土決戦に備えて進めていた。天皇は「わたくしは国民と共にこの東京で苦痛を分ちたい」と拒絶した事を読んだが、半信半疑であったので、私は一度もこの事は書かなかった。今回、半藤一利氏の「くりま」誌を読んで、真実であった事が分かった。半藤氏の「くりま」誌には場合によっては 陸軍は、天皇を拉致してもここに籠り、最後の一兵まで戦う覚悟を決めていたとある。現在は松代大本営保存をすすめる会があって「希望の家」として一般の見学の場所となっている。住所と電話番号があるので事実とわかった。

日本政府が国民に伝えること、考えないで隠そうとしている事が次から次に出てくるように思うのである。昭和天皇は参謀総長等の言葉に不審に考えて、信頼できる数名に詳細に調査させたら、戦備は全く整っていなかったことが分かって、ポツダム宣言を受諾して終戦を決意されたのであった。

藤原中隊の一ヶ月は 初年兵達の前では言う事ができないことも、下士官室では戦果の不利な事を語り合った苦悩の日々を過ごしたのであった。日本政府は昭和の対戦の有利であった事、不利で終わったことの真実を子孫に伝え、戦争の可否判断の教育の一助にしてはどうかと私は考えて書いている。

追記//「くりま」誌9月号には 朝日新聞大阪本社が終戦直前に満州事変から終戦までの写真を木箱数箱に詰めて疎開してあったその一部50枚余も掲載されている。また日本の聖戦の陰にあった真実も知る事ができた。永久保存版となっているが 私には大切な一冊が増えたと思っている。

また、昭和6年の柳条湖付近の満州鉄道爆破事変のことも、詳細に知る事ができた。この時の昭和天皇の「戦争の拡大はまかりならん」のお言葉を、日本軍部が守っていたら、あの長い戦争への道にと突入する事もなく、平和で過ごせたと思うと、権力者の行動には強く憤りを感ずるばかりである。

私は昭和14年7月1日に※現役兵として入隊してから、敗戦までに生家で生活したのは14ヶ月である。戦地には短く、国内では長かったので、陸軍の裏と表も全部知る事ができた一人でもある。しかし、「軍馬は生きた兵器である。国に見えない菊のご紋章が付いている。兵卒は一銭五厘のハガキ一枚でどうにでもなる消耗品だ」などの叱責の言葉と、これに類似した叱責と罰の行為は 軍部のどのへんから発せられたかは知る事ができないで終わってしまった。

※叱責と罰については 別に書きます。

※現役兵...
当時は日本男子は20歳になると全員が徴兵検査の義務があった。

昭和12年までは甲種合格、第一補充兵役、第2補充兵役、不合格とに分けられていた。
甲種合格だけが各種兵科に決められて現役兵として各種連隊に入隊して2年間の教育を修了して除隊になった。

昭和13年からは甲種合格、2種合格 丙種合格、不合格とに改正になった。

○現役兵2年、予備役5年4ヶ月、後備兵役10年....戦争となると不合格者以外の男子には 徴兵検査から17年4ヶ月という長い兵役義務があった。

昭和の大戦では 兵員に不足を総自他青年学校上級生及び 兵役不合格者までも召集したのであった。戦争だけではなく 食糧生産にも従事させられたのである。

○中学生の男女は軍需工場などに動員されて働いたり 又は農家に泊まり込みで農作業に従事したのも事実である。

○ 小学生は イタドリの葉を取り集めて 乾燥して タバコに使用するのに 各市町村の指定の場所に集荷した。各学校の生徒は学業でなく、戦争のために協力させられたのであった。


[手記コメント(2)]

Edited by じゅんか 2009-10-21 21:54:42
Last Modified 2014-08-16 21:27:55

< 新しい記事 | HOME | 古い記事 >

コメント


以前ケーブルテレビで観た事です。
なぜポツダム宣言受理が遅れたのか。
それは、何度も天皇統治の権限を残そうと交渉していたから。それは天皇自らが望んだ事。
昭和天皇が戦局悪化の事を知らなかったなんて嘘っぱちもいいとこ。
事実、昭和天皇の妻が海外へ疎開していた子供へ「B29の攻撃が凄くてもうだめかもしれない」という事を手紙に書いて送っている。その証拠の手紙が実際に残っている。
昭和天皇は、戦争犯罪人です。

投稿者:だいだい|2009-10-31 00:51:52


だいだいさま

コメントありがとうございます。
咲間さんにもお伝えしておきます。

戦争責任の部分については 私も複雑な思いを持っております。当ブログの立場等について 改めて トピを立てさせていただきます。

ありがとうございました。

投稿者:junka|2009-10-31 21:24:03


お問い合わせ
Copyright © 2009-2019 press328.com. All Rights Reserved
Produced by Press328.com