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藤本 安馬氏の来訪(2)
[手記]
 藤本氏の手記は工場内の図解説明も詳細に書かれており、関東軍が敗戦直後に現地で、日本兵が上官の指示で毒ガス弾を地下または古井戸に遺棄したことを、本人実名で、当時の状況から詳しく書いてもらって集録している。また、戦争中に毒ガスによって被害を受けて、現在も後遺症に苦しんでいる中国人、日本軍が遺棄した毒ガス弾が数十年後に掘り出されて身体に付着して、その被害で苦しんで過ごしている中国人数人に逢って、実名写真入りで 藤本氏の手記には集録されている。本人は現在、大久野島毒ガス障害者三原地区対策協議会会長、さらに毒ガス島歴史研究所の顧問になっている。私と同じく当時の日本の教育を受けた人だが、8歳若いだけに考えのきりかえが早かったと思った。

 毒ガス生産工員六千人とも言われたが、敗戦後1300余名の集まりで毒ガス障害者として政府に陳情を重ねて、昭和29年に毒ガス障害者救済のための特別措置要綱が制定になって、毎月障害手当金が支給になっていることも聞かされた。

 私の手記には80歳迄は上官の命令は天皇陛下の命令として 語らず、書かずで過ごして来たことが書かれていたので、広島から来て下さり、5時間40分の長時間語り合え、毒ガスの内容も詳しく知る事ができたのだ。昭和29年に毒ガス障害者救済が制定されたのに、私の瓦斯13部隊が800名という兵員であり、部隊全員に配られた800名の名簿、住所氏名、階級、利用駅名も書かれてあるものを現在も所持している。再度の召集などで戦死者があっても、半数の400名は29年当時は健在であったとも思う。部隊で一番若かった私でも満90歳となり、同年兵19名中一人となってしまった。戦友会で逢った先輩兵や同年兵にも昨年9月から便りを出したが、健在との返信は一枚もなく、中には書かれた住所には居りませんと戻って来たものもあった。救済措置法が制定になったことを毒ガスを使用した軍人に知らせてくれない政府が悪いのか、生産した人たちのように陳情もせずに過ごして来た私たちが悪いのかわからないが、90歳ともなった私には陳情する余日もない年齢である。29年といえば 35歳で症状も軽かった。制度ができたことを知る事ができていたら、その支給金によってなんらかの治療で私の苦痛もこんなにひどくならないで過ごせたのではなかろうかと思うと、何時も国民に大しての政府のあいまいな政治が多い事に強い憤りを覚える。

 藤本氏は中国に何回も出向いて被害者に逢って、毒ガスを製造した一人として謝罪をしたり、講演もしたが、中国人はみんなが「あなたも被害者の一人なのです。謝罪に来るのは日本国の代表者なのです」と語って、温かく語り合えたと言っていた。藤本氏に、毒ガスの後遺症のシビレと痛みには温泉入浴が効果があることを聞かされたので、今年4月に介護者認定を申請して、要認定1と認められて週一回温泉に行っているが、中々良くならない。藤本氏は、毒ガスの被害は原爆と同じように子や孫達にも及ぶだろうと考えて、原爆被害者と同一の被害者救済のために、現在も東京に出向いて陳情を続けていることも語っていた。

(平成19年 咲間 進氏 記)


[手記]

Edited by じゅんか 2009-06-02 15:22:56
Last Modified 2009-06-02 15:23:24

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