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北部30111部隊第三中隊(2)
[手記]
軍事訓練は、誰も兵器を持たない教育が午前中であった。午後は壕作りに連日汗を流していた。隊員は全員が若いので配給になっている米麦では足りないので本部勤務兵は苦労の連続であった。5名が2科目ずつ担当していた。下士官2名に兵2名であった。 ※私は人事係と衣服係の担当であったが、時間があると食糧係を手伝う事が多かった。

当時の虻田町長が伊達出身者であった事と、中学校校長が以前に関内小学校校長の担当者であったことで この2人には協力、援助とお世話になった事は忘れることはできない。連日早朝に炊事場に漁場から生きの良い魚が沢山に届くのであった。町長と漁場の代表者が出向いて来て、「手に入るものでの協力ですから、そして差し入れですから沢山食べて頑張って下さい」と言うのであった。
終戦まで一ヶ月であったが、とてもお世話になった。二回だったが、「数戸の農家の協力です」と白米が届いた時は本当に心から感謝したのであった。この他に 南瓜、薯(イモ)トウモロコシなども届くのであった。

この年は冷害の年でもあり、真夏なのに朝夕は冷えるので伊達町役場に出向いて来て事情を話して、出してもらった毛布と三名で背負って帰った事もあった。北部30111部隊本部からは一度も連絡はなく、本部室では「時々日本はこんな苦境では勝てるとは信じられない。だが、勝たねばならないのだから頑張るだけ」というのであった。夕食後は24名が下士官室、一室に集まるので戦地帰りの者は同じ事を語り合うのであった。中学校の軍曹一人だけが、「そのような事を語り合って、軍部に知れたら大変でしょう」というのであった。

この一名だけが初年兵の教育にビンタ教育であった。あまりにもビンタが多いので本部室の軍曹の一人が行って話したら、「教育は自分達の責任だから口出しするな」と反発を受けたと帰って来た事もあった。ビンタを受けた兵の中にはムラサキ色になっていた兵もあった。何回もビンタを受けた兵は半世紀も過ぎたのに、今でも思い出すと語っている。この軍曹は終戦後はとても優しい先生に変わったことを知った時には、時代が変われば人間も変わるものかと思うのであった。

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※私の階級は 下士官勤務陸軍兵長です。証書は終戦日に焼却したので、今になると惜しかったと思う。(昭和17年1月7日付の証書でした。)
昭和16年8月予備役召集で樺太上敷香の部隊で戦地出動部隊として編成完結した。

その後 日本が大東亜戦争に突入したので 教育部隊として変更になった。10月下旬に当時上等兵であった私が人事係担当者に 「伍長に任命するから 教育係下士官を担当して欲しい...お前ならとなりの下士官の行動を見たらやれるだろう」との事であった。
「下士官になると兵舎内で個室で生活で切るのでよく考えて欲しい」と言われた。
考えると、「2ヶ月足らずの基本教育だけで戦地に派遣になった自分には教育係下士官はできない」と断った。「戦地征きならば受けます..。戦地では充分に修得しましたから」と辞退した。

私と同じ考えで辞退した兵が数名あったことも後日になって知った。
召集になるたびに 部隊では下士官の任務を担当させられた。


[手記]

Edited by じゅんか 2009-10-21 21:40:01
Last Modified 2009-10-21 21:51:09

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