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玉音放送
[手記]
20年8月14日午後、「明日15日正午に全国民に天皇陛下から重大放送があるので、各自はラジオで聞くように」との連絡を受けた。
中隊長を中心にして 本部室では 幹部全員に集合してもらって、本土決戦に突入するのか、または降伏なのかと語り合っても、同じ事を繰り返すばかりであった。一般兵達全員には明朝伝える事にした。不安を一時でも短くする配慮を考えたからであった。夕食後は中隊長も下士官室に残って種々と語り合ったが、決戦に突入、又は降伏であっても 今後の日本はどうなるのだろうと語りあい、又は、こんなに不利な戦果ばかりであったので、早くに講和すべきであったと語り合って一夜を過ごしたのであった。15日正午には全員集合して、ラジオ前で天皇陛下の言葉を聞いたのであった。
終戦の2文字を用いたが、敗戦であり、無条件降伏であった。
当時は日本国の教育は、米英人は鬼畜だとの指示であったので、今後は日本人はどうなるのだろうと不安な日々で過ごしたのであった。午後2時頃には中隊は解散したのであった。佐藤君と2人で街に出て驚いたのは、各所に5人とか10人位で集まった老人達が路上に座って「天皇陛下すみません、勿体ない」と言って手を合わせていた姿であった。
天皇は生きた神様であって、一般人とは語る事ができない偉い人が、国民の前でシャベッタ(話をした)のだから勿体ないというのであった。伊達に帰って話したら 同じようなことがあったのを知ったのであった。

終戦までの日本の教育は 現在では信ずることが出来ない教育であった。我が家に着くと、母が何かを播種していた。聞くと家の中に居ても不安ばかりで、どうしようもないので 気休めに早いトウモロコシを植えていたのであった。自分達が食べられなくとも実が入れば 誰かが食べるだろうと言うのであった。
母は私に「急いで家に行きなさい。学校の先生方が処分するモノを持って来て私の帰宅を待っている」とのことであった。先生は「役場に聞いたら、関内校は咲間進の指示で処分するようにと言われた」というのであった。幹部教育の時に「万一米軍が本土に上陸する事になったら、自分の物は勿論、一般住民の物でも、軍に関する物は全部焼却するよう」に何回も教官に言われていたので、すぐに焼却した。
私は途中で急に考え直した。中国で大きな都市を占領しても、日本軍に従う者は殺さなかった。鬼畜米英と上層部からは言われているが、もしも私が生きていて、後日に「私は戦争に行った」と語っても証拠になる物が必要だと気がついたので、中支那から帰還の時に持参したブリキ製のトランクに軍隊手帖や軍人勅諭、勲八等の証書と勲章等をトランクに詰めて住宅の天井裏に隠した。

一時は忘れていたが、20数年後に出してみたら、中はしっかりしていたので、今でも参考になっている。今になって惜しいことをしたと思うのが、明治4年に入植した当時に持参した数十冊の大切にしていた書籍を、母が「米兵に持って行かれるよりも処分した方が良い」と全部焼却したことである。

当時に数回米兵が来たが、教えられたように悪い人間ではない事も知る事ができた。最初に米兵2人が来た時は兄も私も不在であったので、母が応対に出て行くと、日本語で語るのであって、戦争中はセメントが中々入手できないので、サイロの屋根が茅葺きであったので、「珍しいので写真を撮りたい」とのことだったと言う。記念にと母を映した写真を届けて来た時に、終戦日に母が植えた「トウモロコシ」に実が入っていたので食べたいと言うので、母が煮てやったら喜んで食べていた。
食糧に困っているのでしょうと言っては来るたびにパンや缶詰を沢山いただくのであった。時には友達を連れてくる事もあった。皆が親切でとても温かい人たちであった。約束は実行すると言う誠実が強かったと思う。
後日に親とも語り合ったが、日本の上層部の「米英は人間ではない、鬼人だ、畜生だ」との言葉を信じて、記念にと大事にして来た物品を処分したのが残念だとの事であった。


[手記]

Edited by じゅんか 2009-10-21 22:32:22
Last Modified 2009-10-21 22:32:22

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