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耐乏生活と復興
[手記]
食糧不足と生活物資の配給生活は厳しくなるばかりであった。農家は各自経営面積に依って、作付面積、作物名、出荷量が決定義務となっていて、違反者は処罰されるのであった。
各自が努力して割当数量よりも多く生産した分だけが配給量で、足りない分に補充したのであった。戦中、戦後の配給制度の取り締まりの警察官の中には配給量だけで生活をして、数ヶ月後に死亡した実例が何件かあっても、政府としてもどうにもならない迄に不足してたのであった。時には澱粉粕や「トウモロコシ」の実を取った後の芯だけの粉砕した粉も食糧として配給になったものを生産者の農民も同じように食べて増産と戦後の復興に努力したのであった。
今になって考えると生きられたのが不思議に思う時もある。当時は人間が食べられる野草も種々と加工して食したのであった。
来客時には母が作る南瓜のアンコで馬鈴薯の餅であった事が思い出となっている。冷えたら食べられなくなってしまうのであった。終戦直後に満州軍でシベリア行きの時に、仲間数人で逃亡して帰って来た親戚の青年に、母が食べさせた南瓜と馬鈴薯の餅が、とてもおいしかったと今でも逢うと語っている。

現在の教育とは全く違う教育であったが、信じて教育を受けた人たちだから、どんんな苦労にも耐えて日本が復興できたと思う。戦中、戦後生産地であった農地は 過疎となり、熊が住む原野となってしまった。

昭和15年頃には中国人は、「住民が生きて生活するのに必要な物資の大半が自国で生産できないと駄目だ。中国は国土が広い。10年戦争をしていたら、日本は負ける、と蒋介石が語っている」と言う者が多かった事を思い出した。

日本が負けたのも、原料不足と資材の欠乏が大きかったと思う。昭和15年の秋頃には 中国に出征中の軍人左官数人から、「もうそろそろ戦争は講和して、日本は一休みして戦備を整える時期が到来していると思う」と聞かされた事なども記憶に残っている。過去の戦争では他国に頼って駄目な事を日本は体験したのであった。

戦争と長い軍隊生活を体験した一人として、日本は再度戦争に加わるべきではないと考える。
戦争を放棄した日本国憲法は全世界に誇れるものであり、昭和天皇の記録にもあるように、他国との親密な国交を求めるべきと思う。

私たちが住む地球上から数える事が出来ないほど多数の動植物が滅亡してしまったと読んだ事がある。一番に利口だと言う人間が核兵器の開発を競っている時代ではない。誰もが住める自然の地球を子孫に残す事を考えて、地球を汚す事の大きな戦争をこの地球上からなくす事が、今の大人として一つの責務だと考えるが私一人だろうか。日本は明治から120有余年も官僚依存の政治と言われ、過去の戦争の拡大にも大きな権力があったと思う。
2009年8月の選挙で民主党が大勝で政権交代となった。脱官僚政治を目指すと言うが、打破する事は大きな至難があるだろうが、悪政を改めて欲しいと願う一人でもある。

日本は昭和19年頃から 召集兵の中から農村に入り、畑を耕して食糧作物栽培作業に従事させられたと語る数人は 当時の軍部の指示、命令というか 上官の言葉はとても厳しかったと言う。自分の体に合わない大きい軍服での原野に近い荒れ地を耕しての作業の連日であったと言う。「召集兵にまで食糧作物を栽培させて戦争に勝つためとはいえ、日本がこんなにまでも苦しい状態ではどうにもならないだろう」と、上官が監視からはなれている時間には語り合ったと語っている。

一般の人とは語りたくないが、軍隊生活を体験した者同士だから語るのだ。自分の最後のご奉公は兵士ではなく、軍服着用の農兵であったと語っている。昭和の大戦に参戦した全員が、日本は再度戦争に参加してはならない、9条を守れと言うだろうと私は確信している。


[手記]

Edited by じゅんか 2009-10-21 22:35:56
Last Modified 2009-10-21 22:35:56

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